しばらくしてから女性のお医者さんが部屋にやってきた。ライは診察中ずっと外に待機していて、全てが終わるとお医者さんと何やら英語でやり取りしていた。内容は全く聞き取れなかったけれどライは悪い人ではないというのが確信できるような、そんなやり取りが印象的だった。
「大丈夫かい?」
私を心配して一番に駆けつけてくれたのはスコッチ。何かされたんじゃないかと不安そうな表情をしている。私は上半身をベッドから起こしながら、彼に頷いて答えた。左腕にはまだ点滴が刺さっている。これは、終わったらライが外してくれるという。
「点滴してもらえているんだね。良かった……」
彼の優しさなのだろう。スコッチはドアを少しだけ開けたままにして部屋に入ってくる。そうしてライがしていたのと同じように、部屋の中を確認してからベッドの方へやってきた。
「大丈夫?、酷いこと……されてない?」
私の手首に巻かれた包帯や、他にも何か変化がないか探しているスコッチに私は首を振って否定するけれど、彼の表情は明るくならない。
「……なら、いいんだけど」
あまり信じてもらえていないようだった。そもそもスコッチも、ライと同じく、相手のことを信用していないのかもしれない。診察中、外出させられたことも不服だったのだろう。
ー“あの二人には悪く思われていた方がこちらとしても都合が良いんだ”
そう言っていたライの顔が頭に浮かぶ。ライはただ悪い人に見せているだけだ。本当は違うのにそれを伝えたれないのは心がモヤモヤする。
「ライのことは、」
スコッチが言葉を選ぶように話し始める。
「僕たちも実はよく知らないんだ」
独り言のように呟かれた言葉は、小さな部屋の中へと消えていく。三人の関係は私が思う以上に複雑みたいだ。スコッチが次に話す言葉を私はずっと待っていた。
「だからね、」
「……っ」
「何かあったら必ず教えて欲しい。僕たちは、君を無事に……」
そこでスコッチは言葉にするのを止めてしまった。でも、その瞳でハッキリと教えてくれる。
ーでも、どうして?
どうしてスコッチはこんなにも心配してくれるの。どうして優しくしてくれるの。スコッチも、バーボンも、きっとみんないい人なんじゃ。
「本当は、すぐに君を保護させるべきだったんだ」
決定的な一言に、私は一つ確信する。でもそれが意味することが分からない。だって、それじゃあ何のために三人はお互いの本心を隠している?
「でも信じて欲しい。必ず機会を見つけるから、それまでもう少しだけ耐えてくれ」
その答えは分からないまま。私はスコッチの問いかけに頷いて答えるしかなかった。
「そうだ、君……名前なんて言うんだ?」
スコッチが重たい空気を変えるように、明るい口調で言ってくれた。優しいその声と瞳に私も釣られてしまう。口元が綻んで、そのまま声を出そうとした。でも喉を動かそうとするけれど音にはならない。ぱくぱくと、口を開いては閉じてを繰り返しているとスコッチの目が見開かれていく。
「君、もしかして……」
ライも、私が声が出せないと分かると今のスコッチのように驚いた目をしていた。
「声が……出ないのか?」
そうです、と私が頷いて答えるとスコッチはとても悲し気な瞳をする。彼が酷く動揺しているように見えて私の方が逆に驚いた。スコッチやみんなは何も悪くないのに。三人が来る前から、もう声は出なくなっていたのだ。それを伝えたくても言葉に出来ないのがもどかしい。スコッチの袖を掴んで、見つめる事しかできなかった。
「っ……あ、待って、紙を」
そうしてスコッチもライがしたように、部屋の棚の中から紙一枚とペンを持ってきてくれる。そういえばライもあの時、紙を一枚だけ破いていた。きっと、こうして次に誰かが使うことも予測して裏映りのないようにしていたのかもしれない。
「ん?……今、もしかして笑った?」
「……っ」
「それに、もうこうして近づいても平気そうにも見える」
ーああ、まずい。
ライには「君を逃がそうとしていることは口が裂けても言ってくれるな」と念を押されている。でも無意識に、助かるんだという希望が表情に出てしまっていたのかもしれない。どうしたらいいんだろう。
「……点滴が効いている証拠、かな?」
スコッチはまだ何か言いたげだったけれど、それ以上は言わなかった。ならばと、私も早くスコッチに名前を伝えたくてペンを握った。膝を立てて机代わりに、そうして力の無い文字だけれどゆっくりと書いていく。
“名前”
一生懸命に書いた文字を見て欲しくて顔を上げると、スコッチが紙を覗き込んでくれた。
「ん?……名前?名前で合ってる?」
うん、と頷くとスコッチは優しい目をして笑ってくれた。名前ちゃんか、と。その瞬間、身体中に温かいものが駆け巡っていく。嬉しくて、つい私も笑顔になっていた。それを見たスコッチも、安心したように微笑んでくれる。
「なら、俺も言うよ」
秘密だよ、と小さな声でスコッチ続ける。まるで子供に戻ったような気分で少し楽しい。私たちは自然と内緒話をするように上半身を近づけ合っていた。
ーヒロ……。
そうして聞こえた、“ヒロ”の二文字。確認するように口でなぞってみると、彼は僅かに微笑んでくれた。再度「内緒にしてくれよ」と念押しをして。とはいっても私は声が出ないのだから、ついうっかり呼んでしまうことはないのに。いや、それを彼も分かっているから教えてくれたのだろう。私たちはそうして秘密の筆談をしながら、少しだけ楽しい時間を過ごした。
「じゃあ名前ちゃん、」
そうして切り出す彼の表情は少し重たい。ライにも言われていたことだから、その続きは何となく察することが出来た。
「その……辛いと思うけれど、あの男のことについて少し聞きたいことがあって」
私は先ほど、ライにもこの話を一通り聞かれていた。それは、スコッチには言っていないことなのだろう。“悪いが、今と同じことを答えておいてくれ”と言われた通り、私は自分の知っていることを全て伝えていく。スコッチの表情は段々と険しくなっていった。
ーやっぱり優しいひと……。
ライはこの後、私を売り飛ばすフリをして警察に保護させるつもりだと言っていた。でも、それは上手くいくだろうか。ヒロさんがその作戦を聞いたら止めようとするんじゃ?
「大丈夫?」
ヒロさんの声に私は顔を上げる。優しげな瞳。綺麗な澄んだ眼差しだった。
「悪い、身体も辛いのにこんなこと……」
そう言われて思わず私は、彼の頬に手を伸ばしていた。指先でそっと、触れてみる。その時何故か、どうしようもなく胸が痛んで苦しくなった。
「名前、ちゃん?」
気づけば、ぎゅっとヒロさんの首に抱きついていた。突拍子も無い行動に彼は少し驚いたような声を漏らしていたけれど、すぐに笑ってこの場を誤魔化してくれる。
「ん……どう、した?」
それに答えられない私は何度も、ぎゅっと力を込める。ヒロさんの体温を感じたくなっていた。
本当はライのことも言いたかった。ライの知らないことを私は知ってしまったから。でも口止めされているものを、簡単に破る訳にはいかない。聡明なライはきっと、どういう状況になっても上手くやるのだろう。それを信じるしか無かった。
「不安になった?……大丈夫だよ、僕がいるよ?」
代わりに、ヒロさんに対して芽生えたこの気持ちは隠したくない。私が保護されたらきっとヒロさんとはもう二度と会うことはないのだろう。そう思うと堪らなく、彼の体温を感じていたくなった。
そんな風にに思う相手に、何も言えないことがこんなにも辛いなんて。ただ、互いの体温が溶け合うようなこの時間だけはずっと幸せだった。