03

ライが部屋を出て行った後、入れ替わる様にスコッチが部屋に入ってきた。部屋のドアを開けたままにしてくれているのは、彼の優しさなのだと思う。スコッチは、ライがしたのと同様に部屋の中を一通り確認すると、心配そうに駆け寄ってきてくれた。

「大丈夫?何も、されてないか?」

小声でそう言われ、心臓の鼓動が早まったのを感じた。ライの予想通りの反応をしたスコッチに、私は視線を外す。何かされたか?、そんなことを聞かれたら、まず首を振れと、ライに言われていたから、言う通りにするしかない。

「本当に?……なら、いいんだけど」

スコッチも疑い深いのか、私の身体を隈なく見つめては、ベッド周りにも目を向けて、何か変化がないかと探しているようだった。そうして、私から少し離れたベッドの上に腰掛ける。

「じゃあ、何を話していたんだ?結構、時間経ってたけど」

これも、ライが予想していた通り。私は何も答えられなくて沈黙していると、スコッチは顔を歪ませた。そして静かに、私の肩にそっと触れて、顔を覗き込んでくる。

「……強要されたのか?」

決して、そんなことはないのだけれど、もし何度も聞かれるようなら肯定しろと言っていた、ライの言葉が蘇ってくる。「二人には、そう思わせておいた方がこちらとしても都合がいいんでね」と言っていたライの頭の中はよく分からない。でも、彼が私を助けようとしてくれているのは本当らしかった。だからライを、こんな風に言うのは本当は心苦しいし、そんなことがあったとスコッチに伝えるのには勇気がいった。

「っ……ごめん」

でも、スコッチは私の沈黙を肯定と捉えたのか、ぐっと抱き寄せてくれた。どうしてこんなにも、スコッチは寄り添ってくれるのだろう。こんな風に、私を包み込み、謝罪の言葉を口にする人が、悪い人にはとても見えなかった。

「二人にさせるべきじゃなかったのに」

でも出来なくて……とスコッチは私の耳元でそう口にする。その声は僅かに震えていて、部屋を出て行った時の、スコッチとバーボンの背中が思い浮かんだ。あの時、本当はもっと強引に止めたかったのだと、そういう風に聞こえた。

「医者に診てもらった後、機会を見つけて必ず君を逃がしてあげるから、それまでもう少し、耐えて欲しい」

でも耳元でそう囁かれて、私の頭の中にはゆっくりと疑問が生まれ始める。これはつまりスコッチも、ライも、私を助けようとしてくれているということ……?そう思ったけれど、私の鈍い頭では、それが意味することを導き出せず、頷くことしかできなかった。

「ね、そうだ君……名前なんて言うんだ?」

スコッチは、重たい空気を敢えて変えるように、明るい口調で言ってくれた。優しいその声と、瞳に、私も釣られるように顔を上げる。スコッチに今、自分の名前を伝えたい。でも、口を開けて、喉を動かそうとするけれど、音にはならなかった。

「君、もしかして……」

先ほどのライも、私が声が出せないと分かると、今のスコッチのように驚いた目をしていた。そして目を伏せると、悪かったと、私に銃を突き付けたことを後悔するように謝っていた。もう私の声は、三人に出会う前から出ていなかったのだけれど。

「声が……出ない、のか?」

私が頷いて答えると、スコッチはとても悲し気な瞳で「そんな……」と、酷く動揺する。その姿に、逆に私の方が驚いて、私は大丈夫とどうにか伝えようと、思わず彼の袖を掴んで少し引いた。

「……あ、待って、紙を」

そうしてスコッチもライがしたように、部屋の棚の中から紙とペンを持ってきてくれる。そういえば、ライは一枚だけ破いていた。ああ、きっと、こうしてスコッチが使うことも予測して、裏映りのないようにしていたんだ。そう思っていたら、スコッチも一枚だけ破いて持ってきていた。

「あれ……そういえば君、顔色良くなった?……それに、」

あんまり怖がってないね、とライと話す前と後の私の変化に、彼は気づいたようだった。確かに、少し胃を満たしたおかげで、力が湧いてきていた。それに、助かるんだという希望も心を満たし、それが表にも現れていたのかもしれない。

ああ、まずい。ライに「俺が、君を逃がそうとしていることは口が裂けても言ってくれるな」と念を押されていたのに。どうしたらいいんだろう。でも、スコッチも私を逃がそうとしてくれている。じゃあ、隠さなくてもいいんじゃないか。

「もしかして……いや、」

スコッチは何か言いたげだったけれど、その言葉の続きはなかった。ライに、“強要された”と、思わせておいた方がいいというのは、こういうことなのかもしれない。ライは一体、どこまで読んでいるんだろう。その先見の明に言葉もないのだけれど、私には優しいスコッチを騙しているような気がして苦しかった。

それでも、助かるためにはライを信じて今は言う通りにするしかない。私はこの沈黙を断ち切るように、紙とペンに手を伸ばすと、ゆっくりとした動きで自分の名前を書いていく。

“名前”

ぼこぼことして書きづらいベッドの上で、私は一生懸命、綺麗に見えるよう書いた。スコッチに、名前を伝えたかった。

「名前?……名前で、合ってる?」

そう聞かれて、うん、と頷くと、「名前ちゃんか」と親しみを込めて呼ばれ、その瞬間、身体中に温かいものが駆け巡っていくようだった。気づけば顔の強張りが引いて、少しだけ口角が上がっていた。それを見ていたスコッチも、安心したように笑みを浮かべるから、二人で少しだけ笑い合った。

「なら、オレも言うよ」

秘密だよ、と言う声はまるで少年のよう。私たちは二人で内緒話をするように上半身を近づけ合って、私は片耳を彼に寄せた。

そうして聞こえた、“ヒロ”の二文字。確認するように、口でなぞってみると、彼は僅かに微笑んで頷いてくれた。再度、「内緒にしてくれよ」と念押しされ、私は大きく頷く。声が出ないのだから、ついうっかり呼んでしまうことはない。それを、きっと彼も分かっているから、教えてくれたんだ。

「じゃあ名前ちゃん、その……辛いと思うけれど聞きたいことがあって」

そうヒロさんは切り出して、ライがしたのと同じように私に質問をしていく。これには、答えていいとライに言われていたので、私は偽りなく自分の知っていることを伝えていった。

でも、やっぱり心に引っ掛かり続けていることが、気になって仕方がない。

ライは、私を助けようとしてくれている。あの時本当は、私を消すフリをして、薬で眠らせ保護するつもりだったらしい。でも状況が変わり、情報を吐かせるためと見せかけて、私を此処へ連れてきた。そしてこの後、ライの仲間だという医者に私を診せるけれど、二人には、私をその医者に売り、口を封じると説明するそう。

でも、ヒロさんも私を逃がそうとしているのなら、この後、私を売り飛ばそうとするライの作戦を彼は止めようとするのではないか。そう思って、ヒロさんの質問に答え終わった後、私はまたペンに手を伸ばしていた。

“ライは”

紙にそこまで書いたけれど、筆が止まる。何と伝えればいいだろう。ライは、助けようとしている事を決して言うなと言っていた。

「どう、したの?」

その声に顔を上げると、ヒロさんは少し動揺しているようだった。きっと彼もライのことが気になるのだと思う。悩んだ末に私は、そっと、人差し指を口元に添えて彼にお願いした。

「内緒?……うん、いいよ。内緒にする」

大丈夫、信じてと、ヒロさんは私の頬に片手を添えると、至近距離で見つめ合った。それは優しげな瞳。綺麗な、澄んだ眼差しだった。その時何故か、どうしようもなく胸が痛んで、苦しくなる。

「名前、ちゃん?」

気づけば、ぎゅっとヒロさんの首に抱きついていた。そんな突拍子も無い行動に、彼は少しだけ声を漏らしていたけれど、すぐに笑ってこの場を誤魔化してくれる。

「ん……どう、した?」

当然、それに答えられない私は、何度も、ぎゅっと力を込めて、ヒロさんの体温を感じていた。

本当はライのこと、言いたかった。でもそれが正解かどうかは、分からなかった。ただ、聡明なライはきっと、どういう状況になっても有言実行する。なら変に、私が動いてはいけない。そんな気がして。結局のところ、勇気が出なかったのだと思うけれど。

その代わりに、ヒロさんに対して芽生えたこの気持ちを、隠すことはしたくなかった。きっと、ヒロさんとはこれが最後。そう思うと堪らなく、彼の体温を感じたくなっていた。

「不安に、なった?……大丈夫だよ、僕がいるよ?」

何も言えないことがこんなにも辛いなんて。でも、互いの体温が溶け合うようなこの時間は、ずっと幸せだった。